2007年8月23日木曜日

とにかく何か・・できること 「音楽」



母は音楽・・主にクラシックですが好きなので、1人部屋で思いっきり好きなクラシックを聴いてもらおうと、デザインCDを購入しました。


オレンジとかグリーンとかカラフルな色があったのですが、カラーはブラックにしました。病院では「黒色」は「死」の色ということで敬遠されますが、緩和ケア病棟ですので、まあ大丈夫とのことでこのCDデッキを購入しました。

中国製です。結構、音がクリアで音量も出るので気に入りました。

さらにクラシックのCDを10枚ほど買いました。モーツアルトにJ.S.バッハ、メンデルスゾーン、ショパン、シューベルトなど古典派とロマン派の巨匠のオムニバスを買ってきました。
タイマーセットもできるので、便利です。
母も喜んで聞いています。ただ、音楽を聴いていると目を瞑るので、寝ているのか聞いているのかわからなくなります。
ちょっと不安になったので、母を呼ぶと眼をパッと見開いて、何やら考え深げな顔をします。
でも好きな曲が聞けてうれしそうな母を見て安心しています。

2007年7月23日月曜日

初めて口にしたハーゲンダッツ


ホスピス病棟に移ってから早速、ハーゲンダッツのアイスクリームを買ってきました。

バニラ・ストロベリー・クッキー&クリームを買ってきて、バニラを食べさせました。

スプーンにすくって、母に食べさせると、「おいしい。」と一言。こんなにおいしいものは久々に食べた、と漏らしました。母は昭和のはじめに生まれてますので、「ハーゲンダッツ」という銘柄を知りませんでした。アイスクリームは「雪印」だと、未だに思っています。札幌鉄道病院に入院したのが6/7ですから、約2か月ほど口に何も入れてなかったわけです。

その後は、次々に「・・が食べたい」と言ってくれるようになりました。

「キウイ」が食べたい、と言うので、キウイを小さくカットして口に持っていくと、「おいしい。」と一言。あんみつや、桃、グレープフルーツやぶどうなどを次々に食べるようになりました。

人間は、何か1つでも楽しみを見つけると、それがどんな些細なものでも「生きる」意欲が生まれるものだ、とつくづく感じました。

あまり多くは食べられませんが、母から自分の言葉で「・・したい」と聞くことは、息子にとってとてもうれしいことです。

母から「ラドクロアの妻のことが知りたい」と言ってきました。知識欲がでてきたわけです。

早速、家に帰ってインターネットで調べてみることにしました。

2007年7月22日日曜日

ホスピス病棟の看護師さんとの打ち合わせ


「ホスピス」には2通りあって、1つは専門の施設に患者さんが入ってもらうもの、もう1つは在宅ホスピスです。
どちらも考え方は同じです。末期で治療が医学的に不可能な場合、患者さんの不安を取り除き、自分の好きなことをしてもらい、家族との交流を通じて残りの人生を少しでも有意義にしてもらうことです。治療はしませんが、精神的な苦痛の緩和、肉体的苦痛の緩和の処置は行います。具体的には前者がカウンセリング、後者が薬投与による痛みの緩和です。

本来、死を迎える患者さんの90%は自宅での死を望んでいます。家族に看取られて最期を迎えたい、という気持ちが高いのも当たり前です。しかし、現実的には在宅では「痛み」の緩和措置ができないことや、急な変調にすぐ対応ができない理由から在宅ホスピス自体が少ないのも事実です。

私は母がホスピス病棟に移った後、担当看護師のKさんと面談をしました。

今後のケア看護の計画を立てるのです。と言っても詳細な計画と言うより、看護師と家族との考え方のコセンサスを取るといった感じです。

まず病状の確認。食道癌が食道全体に張り巡らされ、癌性腹膜炎・癌性胸膜炎で腹水・胸水が溜まっていること。余命が夏を越せない、と判断されており、本人は知らされていないこと。栄養・水分はすべて、点滴から得られ口からの栄養摂取が皆無なこと。小水は尿道からの管から排出され、腹水は胃に通したPEGから排出されていること、などです。

また今後の計画として、ボランティアさんなど人との接触機会を増やし、自分の好きなこと・興味のあること・楽しいことを自分から進んでやりたい、と思えるような環境を作ることを話し合いました。
とりあえず、オーディオを持ってきて、母の好きなクラシックを終日流し、K看護師さんからは、病院の食事をまったく摂取していないので、好きなもの・食べたい物を舐める程度で構わないので口に入れてみよう、と母に一緒に話しました。


2007年7月20日金曜日

ホスピス病棟への引っ越し


母を一般病棟からホスピス病棟(ケアセンター)へ引っ越しです。川崎井田病院のケアセンターは、増床のため、迷路のように入り組んでいます。
先に婦長さんに案内されてケアセンター2階の部屋へ案内されました。

今までとは違い1人部屋です。しかも無差額とは言え、非常に広い感じがしました。

ソファや箪笥、トイレまで備え付けられています。
取りあえず、一通り、ふき掃除をして母を迎える準備をしました。
母を移動後に、ケアセンターの担当看護師さんに、ケアセンター内を紹介されました。ホスピス病棟は、「治療」はしません。すでに末期の患者さんに、少しでも精神的に楽な生活をしてもらい、家族とのコミュニケーションを取ってもらえるように工夫されています。
イベントルームには、5脚のテーブルにキッチンが備え付けてあり、そこの書籍・ビデオ・DVD・CDは貸出自由です。
家族ルームが2部屋あり、畳敷きの6畳間で、急な泊まりにも対応しています。
リラックスルームには音響設備が完備され、自由に音楽を楽しめます。もちろん、ランドリー設備もあります。
プレステ2が置いてあるゲーム部屋や、驚いたことに「喫煙室」がありました。
一般的に病院はすべて禁煙です。しかしホスピスでは、患者さんがヘビースモーカーの場合でも、自分の好きな銘柄の煙草を自由に吸えるように部屋を設けているのです。その部屋にはパチンコ台も設置してありました。
部屋はもちろん1人部屋ですが、携帯電話も自由です。
家族と気軽に連絡できるように、電話は備え付けてあるのですが、電話を取るのも難しい患者さんも多いので携帯電話で、家族とのやりとりをしてもらうようにしています。
でも連れてきた母の表情はあまり芳しくありませんでした。

2007年7月19日木曜日

ついにホスピス病棟へ移動

川崎市立井田病院には「ホスピス病棟」があります。
病棟名称は、「ケアセンター」と呼ばれ、末期癌・白血病などもう治療が不可能な患者に対して精神的にケアして、家族との交流を密にしてもらい、やすらかな死を送る病棟です。

担当医師と看護婦長から、ケアセンターのベッドが空いたので金曜日に移動する旨を知らされました。
母は未だ、自分の余命については知りません。
母に「ケアセンター」のベッドが空いたので移動することを伝えると、「私の死に場所だ。」と一言つぶやきました。
それに対して、私は何も言えませんでした。
「そんなことないよ。」と言いたかったのですが、母の顔には「死」に対する覚悟たるものが見て感じられたからです。

ケアセンターは全室個室で、20ベッドの無料個室と、3室の有料個室があります。有料個室は高い場所で19、500円/日します。保険に入っていない私は、ちょっと心配でしたが、病院側で無料個室の空きがあるまで待っていたと、後から知らされました。

「ほっ」としたと同時に、空きがある、ということは誰かが無くなったと言うことです。複雑な気持ちになりました。

2007年7月18日水曜日

点滴の限界

母は既に「癌性腹膜炎」「癌性胸膜炎」を併発しており、食道癌も食道全体から内臓全体に転移してきております。生存に必要な栄養は、すべて点滴で賄っています。
現在、点滴は左右の手首から摂取しています。そのため、手の自由が制限され、同時に栄養摂取効率が高いために首の大静脈より点滴をするようにしました。
首から摂取することで、左右の手の自由が効きます。

母には手術前に私から、「今より元気になるように、首からの点滴に切り替える」と告げました。

点滴手術は、病室内で行える簡単なものです。ただ母の血管が細い為、2回目にして管を通すことに成功しました。

札幌で入れた胃のPEGは、癌性腹膜炎による腹水を排除する管として残しております。
小水も尿道に通した管で行っています。

とにかく元気がありません。
自分の好きなことすら、億劫がってやろうとしません。ほとんど、管だけで栄養摂取と排泄をしている現在、自分の死を意識しているかのようです。

ほとほと困りました。

2007年7月16日月曜日

今、母にしてあげること・・PART2

母のために何がしてあげるか?どうしたら喜んでもらえるか?

母は最近、もの想いに耽ることが多くなりました。睡眠も1時間ぐらいしか取っていません。流動食もほとんど、口をつけない状態です。

「何を考えているの?」と尋ねると・・「昔のこと・・」と呟きます。
母の好きなものを考えてみました。

母は昔から絵が好きでした。自分でも水彩画をよく描いていたと聞いています。母の好きな絵は「印象派」の画家たちです。でもゴッホのような強烈なタッチの絵は好きではありません。

もっと優しい、やわらかなタッチの絵を好みます。

私は「モネ」の名画集を買ってきて、母に見せてあげました。


母はモネの絵では、「印象」よりも「睡蓮」が好きなようです。モネの親友だったルノアールも大好きな作家の一人です。ルノアールのあのやわらかで、ふくよかな人物像を見ると、心がほっとするそうです。

ルノアールの絵画集も買いましたが、まだ見せていません。母はもう自分で画集を開こうとしなくなりました。大好きな絵画も見るのが億劫になってしまったようです。それでも、私が見舞に行って、画集を開くと母は「私も見たい」と言ってせがみます。

1ページづつ開いては見せて、母と絵画について話すこととなりました。

母は2人の作家の他には、モジリアニが好きです。

モジリアニは薄幸な画家です。死後はじめて絵が認められました。でもルノアールと共通する何かがあります。ほんわかとした雰囲気、ふくよかな人物、特に胸から上を描くモジリアニを見ると、その人物になりきったように感じられるそうです。

モジリアニの画風は、どことなく「にじみ」があって、水彩画のような柔らかさと単純な構造の中に人物を浮かび上がらせるポートレートのようなイメージがあります。背景は極端にデフォルメされ、でも大胆な色使いをすることで、その人物の心すら表しています。
私は数枚の名画ポスターを買うことにしました。
母が家に来た時に、いつでも眺められるようにしたかったからです。


2007年7月10日火曜日

今、母にしてあげること


最近の母はめっきり元気がなくなり、TVも見たくない、音楽も聞きたくない、と昔好きだったことをしなくなりました。覇気がなく、眼は虚ろに天井を見つめることが多くなった気がします。

何かできることはないか?どうしたら喜んでもらえるか?

そればかり考えている毎日です。


母が札幌時代に定年退職した会社の社員一同から、観葉植物の「パキラ」を貰ったそうで、退職して9年になる今でも成長を続けています。札幌から川崎に移動する時に持ってきたパキラの鉢を植え替えました。また新しい葉が出てきているので、大きい鉢に植え替えたのです。
この写真を見せると、母は笑みを浮かべ昔を懐かしんでいるようでした。
既に自分の死期を感じている様子で、もう私たち家族と一緒に住むことはできそうもない、と思っているようです。ほかにも何かしてあげようと思います。

親戚のお見舞い

川崎に移動してから1週間ほど経ち、妻の実家の父母と姉夫婦が見舞にきてくれました。義理の父母は東戸塚に住んでいますので、横浜新道から第三京浜を経由して約40分ほどの距離です。姉夫婦は横浜の山下公園のすぐ近くに住んでいます。1歳半の息子さんも連れて来られました。

母の昔のアルバムを見て、若かりし日の・・まだ美しかった頃の写真を見て感嘆の声をあげていました。1歳半の甥っ子は、病院が初めてのようで、とても珍しい様子でそこらじゅうを眺めていました。母の顔がほころんでいたのが印象に残っています。やはり子供のパワーは凄いなと思います。早く孫の顔を見せてあげられれば良かった、と後悔しています。

母は昔からとても気の遣う人で、妻の実家の見舞が来ることを前日に告げると「見舞いに来ないでほしい」と呟きました。なぜ、と尋ねると、「こんな変わり果てた姿を見せたくないから」と力なく答えました。人一倍誇りの高い母らしい一言です。

しばらくして義理の父母・姉夫婦がお暇した後、妻が母の背中をさすっていました。とても気持ちが良さそうです。自分は中学校の物心がついた時代から、母に触れていない気がします。当時は母と手をつないだりするのが恥ずかしかったのです。
看護師さんが背中をさすっている妻の様子を見ながら、母にこう言いました。「温かい手でさすってもらうと、機械よりも断然 良いですよね。」
人の温もりの素晴らしさをしみじみと感じた一日でした。

2007年7月7日土曜日

母SUIKOの生い立ち・・青春時代

旧制女学校を卒業後、SUIKOは「北海道酪農学園大学」に就職します。事務職員として総務・庶務の仕事をしていました。当時は昭和29年ですので、まだ女性が働くという習慣が無い時代です。


SUIKOは無類の動物好きであったことと、当時、実の母が亡くなり、本来は大学に入学したかったのですが断念したそうです。



せめて、大学の仕事をしたいという一心でした。


また、彼女は旧制女学校時代から登山部に入っておりました。


山岳の自然の中で、木々の生い茂る森の中の花や虫、小動物たちと触れ合うことが好きだったからです。


また1943年(SUIKOは10歳)の時に、昭和新山が誕生しました。1945年の秋まで、活発な登山活動によって隆起してできた山ですが、その山にも登山部時代には登っております。

当時、女性で登山部も珍しく、個性的で活発な女性であったことが想像されます。

母SUIKOは当時、好きな男性ができた、と聞いています。やはり登山家で、学者肌の誠実な人だと聞いています。彼女はこの男性に求婚されました。
ところが、彼は事故で帰らぬ人になってしまいました。
彼女がキリスト教(プロテスタント)に改宗するのもこの頃です。

もちろん、母SUIKOがこの男性と結婚していれば、今の著者である私は存在しなかったのですが、まるでドラマのヒロインのようだ、と思いました。

2007年7月6日金曜日

母SUIKOの生い立ち・・幼年期

母「SUIKO」は昭和7年11月17日の蠍座。北海道の野幌町に生まれました。野幌町は札幌の近郊で、今の江別市あたりです。

北海道の自然が今も息づき、原生林に囲まれております。野幌森林公園が有名です。

SUIKOの実家は野幌の地主で、父は煉瓦工場を経営していました。野幌原生林も含む広大な土地を有していたため、当時ではかなり裕福な家庭と言えます。

SUIKOは4人姉妹の末っ子で、長女が22歳の時に生まれました。小学校時代に太平洋戦争も経験しており、札幌への空襲時には防護頭巾を被って地下に避難したそうです。

どちらかと言えば顔立ちは父親似で、幼小のころから本好きで、暇があれば読書をしていたため、よく姉から「お手伝いをしなさい」「女の子が本を読んで(勉強して)どうするの」と怒られたそうです。

当時は女性が勉強するなんて考えられなかった時代でした。

家には犬や猫、北海道馬など、多くの家畜・ペットを飼っていたそうで、SUIKOは進んで世話をしていた、と聞いています。今でも動物好きなのは、そんな子供時代の経験からなのでしょうか。

またSUIKOが12歳の時に実の父を亡くしています。長女・次女・三女ともに20代前半で結婚しており、SUIKOは結婚するまで野幌に住んでいました。

2007年7月4日水曜日

食道末期癌の恐ろしさ・・転移


食道癌は痛みを伴う事が少なく、のどが閊える(つかえる)違和感が自覚症状で、食物が通らなくなり初めて発見されることが多い悪性腫瘍です。


必要な栄養素を摂取できないため、食道癌患者は急激に体重が減っていきます。母は162センチメートルの身長で、健康時には50kgの体重がありましたが、今では29kgと激減しています。手足は骨と皮の状態で、必要な栄養素が取れないために、皮膚も土色になり艶もなくなってしまい、その変化に驚きました。

食道は他の消化器臓器と異なり漿膜(外膜)がないので、比較的周囲に浸潤しやすい癌です。いわゆる「転移」が早いのです。リンパ節への転移も多く、リンパ節に癌が転移すると数々の合併症や転移が見られます。

母をやっとのことで、札幌から川崎へ移動し、その足ですぐに川崎市立井田病院へ入院。一時的に一般病棟に入って、様子を見ながら外泊などをして身体を慣らせながら、在宅介護へ移行する計画を立てておりました。

ところが、母の病状は凄まじいものだったのです。

既に札幌の段階で首のリンパ節に転移していましたが、グリグリ状態に肥大しており、腹部リンパ節の転移も見られました。

さらに「癌性腹膜炎」「癌性胸膜炎」を併発しており、腹水・胸水がかなり溜まっておりました。

「癌性腹膜炎」になると腸閉塞となり、消化器官を圧迫します。だからPEGを入れてもまったく受け入れなかったのです。現在は、「栄養素を入れる」目的ではなく、「胃液・腸液を排出する」目的でPEGを使っている状態です。


今後のリスクとしては、食道が外膜が無い為、他の臓器への転移が早いのですが、最悪は器官と食道が癌によってくっついてしまい、肺炎になることもあるそうです。

食道癌は発見される時期にもよりますが、5年の生存率がたったの5%と少なく、大抵は1年以内の余後です。

食道癌の恐ろしさを改めて知りました。

M先生とC看護師との面談で、在宅介護も難しいかも知れない、となりました。24時間の点滴は止め、昼間の点滴のみとし、夜間は睡眠を取るようにし、食道に入れたステントなどの場合によっては外し(または短いものに変え)、極力、過ごしやすい状態を整えることで一致しました。

母の余命は今年の夏を越せそうもない状態です。1か月・・数週間の余命をいかに過ごすか、を切実に考え悩みます。

母の移動・・航空便 JALさんの対応

札幌から川崎への母にとっては長い道のり。

最大の難関が航空機です。まず寝台(ベッド・ステッチャー)を入れて移動するには手続きも面倒ですし、9席ほど確保しなければなりません。金銭的な問題もありますし、実際9席を取るのは至難の業です。1か月先の予約では、体力も弱り、移動することすら不可能になるかもしれません。

自分はJALさんを使っていますので、JALさんに電話してみました。

JALさんのプライオリティ・ゲスト・サポートというのがありますので、そちらに話を聞くと、まずは医師の診断書と家族の同意書が必要だとのこと。




移動の内容は、介護タクシーで千歳空港の出発窓口まで行き、そこから車いすに乗り換えて、機内に乗せます。その後、また車い椅子に乗せて、空港の到着出口まで移動して、介護タクシーという段取りです。

同意書は自分で書くのですが、「診断書」は担当医師が記入します。

ここで確認すべきは、機内への持ち込み物です。先ほどのステッチャーが必要なのか?酸素ボンベは?点滴をしなければならないのか?という項目と、病名は必須です。伝染性の病気ですと不可能です。

「診断書」を書いてもらったら、一度JALさんのプライオリティ・ゲスト・サポートにFAXをしてチェックしてもらいます。問題がなければ、その診断書原本と同意書を持って、空港のJALさんの窓口に当日渡します。



JALさんの対応はまさしく完璧でした。やはり有名企業は違うな、と感じました。一番関心したのは、プライオリティ・ゲスト・サポートの情報が、隅済みまで連絡されていることです。カウンターに私が行った時点で、もうわかっているようでした。

また、JALさんの用意してくれた車いすは、非常に機動性にすぐれ、リクライニングもでき、狭い機内でもスムーズに移動ができるタイプでした。優先搭乗で先に席に落ち着き、各客室乗務員さん全員が母を気にかけてくれました。

さすがです。


到着後も、同じタイプの車椅子が用意されており、最短距離で到着出口に向かうことができました。約1時間30分の搭乗時間でしたが、なんとか無事に着くことができ、ひと安心です。

2007年7月3日火曜日

母の移動・・札幌から川崎までの長い道のりPART1

受け入れてくれる病院が決まりいざ移動となります。
食道癌も含め、末期癌患者は大抵は体力がほとんどなく、自分で歩行することは困難です。またいろいろと管がつながっているため、車椅子で座ることも困難な場合が多いです。

まずは札幌鉄道病院から札幌千歳空港までの移動と、羽田空港から川崎市立井田病院までの移動を考えなくてはいけません。

普通は入院先の病院で訪ねると「介護タクシー」「福祉タクシー」会社さんを紹介してくれます。「介護タクシー」とは寝台付きの大型タクシーで、寝たままの状態で移動する交通手段です。

いろいろな車種はありますが、電動エレベーター付きで車いすの状態から乗り換えをせずに、社内に乗れるタイプやベッドを固定して運ぶタイプもあります。

札幌千歳空港までは、「ホクシン交通」さんに依頼しました。

http://park16.wakwak.com/~wagamama/tx.htm

札幌鉄道病院から札幌南インターチェンジ経由で、千歳空港まで約1時間です。

さて問題なのは羽田空港から川崎市立井田病院までです。「福祉タクシー」「介護タクシー」で検索して、最初に電話した会社は「空きがありません。」とけんもほろろに断られました。


次に電話したのが「介護タクシー協会」さんです。
非常に丁寧で、状況を確認してくれた後、何度も電話をしてタクシーを探してくれました。困った時は「介護タクシー協会」さんに相談するのがお勧めです。
http://www.kaigo-taxi.com/

「介護タクシー協会」さんが探してくれた会社が「ケアランナーアミー」さんです。

http://homepage2.nifty.com/ammy/index.html

こちらの「介護タクシー」さんも大変親切で、良心的です。何度も空港とのコンタクトもしていただき、普通は人件費なども上乗せで請求する、と聞いていましたが、タクシー運賃と有料道路料金しかご請求されませんでした。また病院の入院棟のベッドまで付き添っていただき、何から何まで面倒を見てくれました。

2007年6月29日金曜日

末期癌患者とその家族・・看護と医療の在り方

今回は「看護」の在り方について述べたいと思います。
母が札幌鉄道病院に入院するに到り、入院病棟の担当看護師Tさんには大変お世話になりました。

担当看護師さんはかなり若い方でしたが、母も「明るい」「気さくに声をかけられる」と満足しておりました。

末期癌の場合、患者本人とその家族、医師と看護師の連携は非常に重要です。母は自分の病気が「食道癌」であることは知っていましたが「余命3~6か月」とは思っていません。でも当然、多大な不安があります。また自分も今後、どのようにケアをすべきか、インターネットや書籍で調べましたが、不安は払拭できません。「医療」の立場では、末期癌では手の施しようがなく、治癒回復は不可能ですから、いかに「痛みを和らげ」「日常の毎日を過ごしやすく」できるかになります。

特に自分の場合は川崎で母が札幌ですから、一番、接触しているのが担当の看護師さんです。看護師さんの役割はたくさんありますが、特に大切なことの1つとして、患者本人とその家族との感情のケア・・コミニューケーションだと思います。

遠方同士のために担当看護師Tさんは何度も、自分の携帯電話に母の病状や今後の方針を知らせてくださいました。

若い方でしたが、「私は一生懸命やります。なんとかお母さんとご家族の希望を叶えてあげたいんです」の一言には、看護に対する情熱を感じました。


大変にハードな職業ですが、良く気を使っていただき、末期癌の母も救われたと思います。
後日、担当看護師さんからは、遠方に家族がいる末期癌で、しかも遠方の病院へ移動するのは稀なケースであり、T看護師自身もかなり悩んだと聞きました。
昔はほとんどの家族が自宅で死を迎えました。しかし現在では、90%の末期癌患者が自宅で死を迎えたいと望んでも、実際は84%の患者が病院で亡くなるそうです。
そんな時に信頼のおける看護師さんに担当されることは、その患者・家族ともに幸運と言えると思います。

2007年6月28日木曜日

食道癌末期 ケア医療PART2・・胃瘻(PEG)

母は食道に「ステント」という管を通したのですが、やはり流動食を受け付けません。「ステント」のリスクは約3点ほどあります。

1つには胃と食道の弁を通じてしまうため嘔吐感があること。2つ目に「ステント」も管ですので、次第に体内でずれてしまいます。3つ目には「ステント」自体が流動食などで詰まってしまうことです。

仮に詰まってもも胃カメラのようなもので洗浄すれば良いのですが、「嘔吐感」は個人差があり、母には受け付けないようでした。特に横になると「嘔吐感」がひどく、そのたびに胸をさすって上半身を起き上がっていました。

また在宅介護をするとなると、点滴は素人では難しく、必要な栄養素・水分の補給を考えなくてはいけません。そこでPEGを実施することになりました。

胃瘻(PEG)とは胃壁に穴をあけ、やはり管を通して、体外から直接に胃の中に栄養素・水分を送り込めるようにする処置です。幸いにして母は「胃」「腸」は健康なので、この処置をすることになったわけです。

PEGにもたくさんの種類がありますが、手術自体も簡単で30分程度で終了します。また、3~4日ほどで胃への直接摂取が可能になるようですので、早速実施したのですが、やはり受け付けません。
むしろこのPEGから「胃液」「腸液」が逆流してしまう状態です。
このとき母は、24時間点滴をしていました。必要最低限の栄養素・水分の確保のための施術ですが、点滴のリスクは個人差はありますが、「眠ることができない」「点滴によって胃液・腸液の量が多くなる」ことです。
次に考えたのがこのPEGを小腸にも伸ばそうと考えました。

2007年6月27日水曜日

食道癌末期のケア医療PART1・・経皮経食道胃管挿入術

母の食道癌は末期で施しようもない状態でした。
食道全体に腫瘍があり、食道全体を圧迫して食物はおろか水分さえ飲めない状態です。

さらに胸部リンパにも転移しており、各器官への転移は時間の問題です。余命は3か月~半年と言われました。

手術も無理、放射線治療も無理。なぜなら癌に対するこれらの治療は部分治療で、早期癌(転移していない状態)の場合は、その部分だけ切除・放射線による癌細胞破壊が可能ですが、転移がひどい場合はそれを全部の器官に施さなければならず、実質不可能です。「治療による快癒」の可能性がゼロですので、後はいかに苦しまないように過ごせるかが、ケア看護の重点課題となります。

札幌鉄道病院さんではまず流動食でも口から摂取できるようにして、体力回復を図るために、経皮経食道胃管挿入術を施すこととなりました。経皮経食道胃管挿入術とは、「ステント」と呼ばれる人工的な管を食道に通して、食道壁を広げる手術です。

身体にメスを入れること無く、胃カメラのようなもので口から挿入するもので、施術が簡単なのですが、胃と食道の弁も通じさせてしまいます。
胃は食物を消化するため胃酸を発生させます。また食物の胃の滞在時間も長いため、嘔吐をおこさないように、胃と食道の節には弁が付いています。下には食物が通りますが、胃から上には弁のために逆流しない仕組みなのです。その弁がない状態になるため、吐き気を催すのがリスクと言えます。
この手術を実施した母ですが、確かに流動食は口から摂取できるようになりましたが、やはり必要な栄養素は点滴で賄うしかない様子でした。

2007年6月25日月曜日

川崎での病院探し

川崎に母を連れてくるといっても、受け入れの病院がありません。

札幌鉄道病院の担当医師に紹介の依頼をしましたが、関東の病院は全く知らない、とのことでした。

北海道では、北海道大学医学部、旭川医科大学、札幌医科歯科大学の派閥が大きく、大抵の医師はこの3校出身者です。医師同士の繋がりやコネクションも北海道内ならある程度効きますが、関東に行くとまったく通用しないことがわかりました。

しかし、そんなことも言っておられません。

インターネットで調べると、以下のホスピスがあることがわかりました。


とりあえず電話。
しかしあえなく撃沈。

末期癌患者はなかなか病院も受け容れたがらないことがわかりました。病院のベッドも大抵は満室状態。空き待ちを申請するしかありません。

ネットで探していると、あるサイトにぶつかりました。

「癌に対する相談電話」で、そこにたまたま電話したとところ、担当の方が川崎市立井田病院を紹介してくれました。M先生にお会いしたら良い、とのことで、明後日10:00にアポイントを取ることができました。


札幌鉄道病院からお借りしたレントゲン写真と、病状紹介状を持って、井田病院の受付に行くと、井田病院側ではとんと話が通じておらず、「おや?」といやな予感がしました。
でもM先生にお会いでき、食道癌末期で、在宅で介護したいこと、ターミナルケアをして、母の精神的な支えをしたい旨を語りました。

M先生は快く引き受けてくださり、一旦、一般病棟に入院の形を取って、その後の経過を診て看護計画を立てようと言ってくれました。

後から判ったのですが、M先生はこの病院でもかなり上の方で、井田病院の紹介の経緯を話すと、川崎市の「癌相談ダイヤル」だとわかりました。

ほとんど、飛びこみ状態で井田病院のM先生にお会いしたことがわかり、非常に幸運でした。
この病院はターミナルケアセンターがあり、ホスピスにもかなり積極的に力を入れている病院です。
札幌鉄道病院の担当医師と担当看護師も、「普通は1か月ぐらい待たされるのに、とてもラッキーでしたね」と驚いていました。
末期癌患者の受け入れ先が少ないこと、また全国の病院のネットワークが無く、地域的に閉鎖されている現状が、はじめてわかりました。これだけ、インターネットが普及しているのですから、医師同士のネットワークも今後、拡大していけたら良いのに思います。


2007年6月23日土曜日

母の家・・引っ越し

母を川崎の我が家に連れて行くために、実家を引っ越すことに決めました。

昔の古い箪笥や、母の使っていた鏡台、自分の勉強机など、かなり古く痛んでおり、母に断って処分することにしました。狭い我が家に大きな家具は置くスペースも無かったのです。

札幌市のごみ回収に電話をかけると、担当のかたが親切に教えてくれました。大型ごみ処理手数料シールを生協やコンビニエンスストアで購入して、処分品の見えるところに貼り付け、所定の場所に置くと言うものです。


家電関係では、掃除機・電子レンジも粗大ゴミ扱いで回収しており、洗濯機・冷蔵庫・テレビは家電リサイクルセンター扱いということもわかりました。大型ゴミの種類によって金額が異なり、大きな箪笥などは1300円、机などは500円、掃除機は200円と決まっており、あらかじめ電話をして尋ね、札幌市さん側で4桁の数字コードを教えてくれるので、シールに記入します。

母の居た実家を整理していると、様々な品物が出てきました。

埃の被った新聞紙に包まれているのは何か?と開封してみると、鯉のぼりと兜が入っていました。

昔、祖母が買ってくれたものです。子供のころの思い出がよみがえりました。

また母は、自分の小学校・中学校時代に自分が学校で描いた絵や、彫刻などをすべて押入れにしまっていました。

母が若いころからの母宛の手紙もすべて保存しており、改めて思い出を大切にする気持ちが痛いほど伝わってきました。




2007年6月17日日曜日

痩せた母の姿






緊急で飛行機を手配し、妻と一緒に札幌に向かいました。



母が入院したのは、「札幌鉄道病院」といい、札幌駅から徒歩7分ぐらいの場所にあります。JR北海道が経営している総合病院で、現在、リニューアルを計画中とのことでした。母は北病棟の一番奥の共同病室に寝ていました。



母はちょっと驚いた様子で、開口一番、「すまないね。」と言いました。母の周りには、伯母や叔父夫婦が見舞いに来ており、眼で私に覚悟を訴えていました。


病院の担当医師と担当看護師から、母の病状について説明されました。


食道癌は食道全体に拡大し、食道全体を圧迫して水さえ通らない様子です。すでにリンパに転移しており、左胸部および左下腹部に腹水の兆候がみられる、とのことでした。末期癌のため、手術も不可能、放射線治療も不可能ということで、ターミナルケアを施すしかないと言われました。幸いにして痛みは無く、胃から下の消化器官は健康なのが救いです。ターミナルケアは、末期癌など治療の可能性の無い患者に対して、「痛みを緩和」し、「精神的なフォロー」をしながら、残されたわずかな人生を少しでも有意義に生きるためのケアです。また母には食道癌であることは告げていますが、末期で余命が僅かであることは告げられていません。まだ生きる希望が少しでもある方が良いとの判断です。
母の僅かな人生のために、「ターミナルケア」をしようと決意しました。

2007年6月15日金曜日

食道癌の告知

自分は川崎在住の40歳男性です。転勤で東京に異動して早17年になります。

実家の札幌の母のことはほとんど構っていませんでした。たまに電話をするぐらいです。

10月頃実家に帰り、母の顔を久々に見ましたが、痩せて小さくなったイメージでした。74歳の母は年金生活で、最近は向いにあるセブンイレブンで、総菜などを買って食べていると聞きました。母の日にはカーネーションを通販で送り、母に電話をしたところ、やはり元気でやっている、と返答が返ってきました。まさか・・数週間後にこんなことになるなんて、思ってもみませんでした。
6月13日、母方の親戚から20時30分頃に電話がありました。叔父からの電話でした。叔父は冷静さを保つように、「心を落ち着けて、よく聞きなさい。」と切り出しました。
母が食道の末期癌で、余命が3か月~半年、と言われました。全身に震えが襲ってきて、母の顔がチラつきました。

頭がくらくらして、数分間は言葉が出てきませんでした。
6/6に倒れて入院し、検査を繰り替えした結果、6/12に叔父が病院に呼ばれたそうです。皮肉にも自分の誕生日でした。